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宮崎地方裁判所 平成6年(行ウ)8号 判決

原告

甲野花子

右訴訟代理人弁護士

前田裕司

被告

地方公務員災害補償基金宮崎県支部長松形祐堯

右訴訟代理人弁護士

佐藤安正

主文

一  被告が原告に対して平成二年一二月二〇日付でした地方公務員災害補償法に基づく公務外認定処分を取り消す。

二  訴訟費用は、被告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

主文と同旨

第二事案の概要

県立高等学校の教諭である甲野太郎(以下「太郎」という。)は、昭和六一年六月五日の授業中に脳血管疾患を発症し、入院後の翌七日死亡した。太郎の妻である原告は被告に対し、地方公務員災害補償法(以下「地公災法」という。)に基づく公務災害認定請求をしたが、被告が同法四五条一項に基づき、右死亡は公務外の災害であるとする公務外認定処分をした。本件は右処分の取消しを求めている事案である。

一  争いのない事実

1  太郎の死亡

太郎(昭和一七年九月二八日生)は、昭和四一年四月に教員として採用され、昭和四九年四月から宮崎県立日向工業高等学校(以下「日向工業高校」という。)保健体育科教諭として勤務していたが、昭和六一年六月五日午前九時過ぎころ、同校の建築科一年生の教室において授業を行っていた際、頭痛を訴え、授業を中断して体育教官室へ戻ったところ、そのまま昏睡状態に陥り、救急車で医療法人泉和会千代田病院(以下「千代田病院」という。)に搬送され、同病院で治療を受けたものの、意識が回復せず、同月七日午後七時二分、入院先の右病院において脳血管疾患により死亡した(以下「本件被災」という。)。

2  本件行政処分

太郎の妻である原告は、昭和六二年一二月二四日、太郎の死亡が公務上のものであるとして地公災法に基づき、被告に対し、公務災害認定請求をしたところ、被告は、平成二年一二月二〇日付で公務外認定処分(以下「本件処分」という。)をした。

そこで、原告は、平成三年二月一四日、地方公務員災害補償基金宮崎県支部審査会(以下「支部審査会」という。)に対し審査請求をしたが、支部審査会は、平成五年三月三〇日付で審査請求を棄却したため、さらに、原告は、平成五年四月二六日、地方公務員災害補償基金審査会(以下「審査会」という。)に対し再審査請求をしたところ、審査会は、平成六年三月二三日付で再審査請求棄却の裁決をし、同裁決書は平成六年六月一三日原告に送達された。

二  原告の主張

1  地公災法に基づく補償は、職員に発生した負傷又は疾患(以下「疾患等」という。)と公務との間に相当因果関係がある場合に行われる。公務と直接関連を有しない職員の基礎疾患の増悪によって死因となった疾患が発症した場合であっても、公務が基礎疾患と共働原因となっているとき、すなわち公務が基礎疾患を増悪させて当該疾患の発症の結果を招いたと認められるときには、右相当因果関係を認めるべきである(共働原因説)。

2  太郎の死因は脳出血又は脳梗塞である。

3  太郎はもともと基礎疾患として高血圧症の既往を有していたが、同人が日向工業高校における生活指導、体育の実技指導及び高校総体の準備等の過重な業務に従事したことによって受けた精神的肉体的ストレスによって、右高血圧症及びそれによる動脈硬化症が自然的経過を超えて増悪し、脳出血を発症させ、その結果、太郎は死亡した。

4  太郎の本件被災と公務との間には、原告の採る共働原因説の立場に立てばもとより、仮に被告の主張する相対的有力原因説の立場に立ったとしても、相当因果関係があると認めるべきである。

三  被告の主張

1  疾患と公務との間に相当因果関係を認めるためには、公務が、災害を引き起こすその他の要因との関係で相対的に有力な原因であったと評価できることが必要である(相対的有力原因説)。

2  脳血管疾患は、業務と疾患との関係を一般化、定型化できないいわゆる包括疾患にあたることから、公務が相対的に有力な原因であったというためには、〈1〉当該公務が有害危険要因を内在する危険な業務であること及び〈2〉右公務の危険性が現実化して疾患が発生したことを立証する必要がある。

そして、過重な業務による著しい肉体的・精神的負荷が通常は起こり得ない血圧変動や血管攣縮等を引き起こし、その結果、血管病変等がその自然経過を超えて急激に著しく増悪し、脳血管疾患等を発症させるに至った場合には、公務に内在する有害因子・危険が現実化したものといえ、公務が相対的に有力な原因となってこれらの疾患を発症させたと判断され、公務と疾患との間に相当因果関係があると認められることがある。

3  右過重な業務とは、通常に割り当てられた業務内容等に比較して特に過重な業務をいい、たとえば、(イ)日常は肉体労働を行わない職員が、勤務場所又はその施設等の火災等特別な事態が発生したことにより、特に過重な肉体労働を必要とする業務を命ぜられ、当該業務を遂行した場合、(ロ)業務上の必要により発症前に正規の勤務時間を超えて週数十時間にまで及ぶ過重な長時間勤務を一か月以上にもわたって行っていた場合又は(ハ)暴風雨、豪雪、猛暑等異常な気象条件下での業務を長時間にわたって行っていた場合等、通常の日常の業務に比較して勤務時間及び業務量の面で特に過重な業務の遂行を余儀なくされた場合がこれに該当する。

右業務の過重性を判断するにあたっては、素因又は基礎疾患を有する通常の職員を基準とすべきであり、素因又は基礎疾患が重篤な職員を基準とすべきではない。

4  太郎の死因は脳出血であると解されるところ、同人の従事した業務は右基準に照らし何ら過重ということはできず、同人が有していた基礎疾患たる高血圧症が自然的経過をたどって、本件脳出血を発症したに過ぎない。

5  なお、疲労が直接の原因となって高血圧症や動脈硬化症を生じることはなく、また、疲労が精神的ストレスを介して血圧上昇を引き起こすことは認められるが、右上昇は一時的なものにとどまり、持続的な血圧の上昇をもたらすものではないから、仮に太郎の従事した業務が過重なものであったとしても、右業務と同人の基礎疾患の増悪との間には因果関係は認められない。

四  争点

太郎の公務と基礎疾患(高血圧症)の増悪及び死亡との間に相当因果関係があるか。

第三争点に対する判断

一  当事者間に争いのない事実及び以下に摘示する証拠によって認められる事実を総合すると、太郎の勤務状況及び死亡に至る経緯等は次のとおりである。

1  日向工業高校における太郎の地位及び校務分掌

太郎は、昭和四九年四月から日向工業高校において保健体育科の教諭として勤務してきた。同校は、昭和三五年に設立された工業高校であり、電気科、機械科、工業化学科及び建築科に分かれており、生徒の定員は八四〇人であった。太郎は同校でサッカー部の顧問を務めており、必修クラブとしてはブラスバンド部を担当し、昭和五七年四月以降、学級担任は持っていなかった。また、太郎は、校務分掌上、昭和五七年四月から昭和六〇年三月まで生活指導部主任等を、昭和六〇年四月から昭和六一年三月まで生活指導部風紀係等を、昭和六一年四月から本件被災まで、生活指導部部活動係、保健体育部保健係・庶務係、図書選定委員、部活動委員及び生徒派遣委員を務めてきた。(〈証拠略〉)

2  勤務時間

日向工業高校の勤務時間は、原則として、月曜日から金曜日までは午前八時一〇分から午後四時四五分まで(但し、午後零時三五分から午後一時二〇分までは休憩時間であり、勤務時間の合計は七時間五〇分となる。)、土曜日は午前八時一〇分から午後一時まで(勤務時間は四時間五〇分)であり、日曜日は勤務を要しない日とされていた。授業時間は一時限五〇分間で一日六時限(土曜日は四時限)あるが、太郎は、保健体育科の教諭として週一六時限の授業(体育一二時限、保健四時限)を担当していたほか、週一時限の必修クラブ(ブラスバンド部)の顧問を務め、また、毎週二時限の体育科会に参加した。

ただし、太郎は、生徒の生活指導及び高校総体の準備等の校務分掌上の職務のため、正規の勤務時間終了後の午後七時五〇分ころまで勤務することが多く、その上、生徒の非行や家出問題が発覚した場合等は、さらに帰宅時間が遅れたり、帰宅後深夜に呼び出されたりすることもあった。

また、太郎は、日曜日等の勤務を要しない日にも、サッカー部の指導等のため、出勤することが多かった。(〈証拠略〉)

3  生活指導

(一) 太郎は、前記のとおり、昭和五七年四月から本件被災まで、生活指導部に所属し、昭和五七年四月から昭和六〇年三月まではその主任を務めていた。

日向工業高校は、男子生徒の比率が高く、中には中学時代から非行を行っていた生徒がかなり存在していたほか、同校は、宮崎県全域を学区とするものの、実際には日向市内やその近郊に居住する生徒が多数を占めていたところ、同地域には普通科高校が一校しかなく、そのために、同校に入学した生徒の中には、不本意ながら工業高校に入学したとして不満を持つ生徒も少なくなく、このような事情もあって、同校はいわゆる荒れた状態にあった。

すなわち、生活指導を受けた生徒数は、昭和五九年度は延べ約一〇〇名であり、昭和六〇年度は延べ一三〇名(八五件)、昭和六一年四月及び五月は延べ八名(六件)であった。また、退学者数は、昭和五八年四月から昭和六一年三月までの三年間で合計七四名(年平均二四・七名)に及んでいる。当時の宮崎県内の高校一校当たりの生活指導案件数は年平均三〇件前後で、同県内の普通科高校の中退者は年平均二ないし三名に過ぎない上、同じ工業高校である同県立都城工業高等学校においても、昭和五八年四月から昭和六一年三月までの謹慎生徒数は一七八名(年平均五九・三名)、中退者数は四四名(年平均一四・六名)に過ぎなかった。

また、日向工業高校において、非行の内容としては、喫煙、シンナー吸引、パチンコ、暴行、窃盗(万引き等以外に、学校で保管中の生徒の運転免許証が全て盗まれた事件もあり、預かっていた免許証の持ち主の調査に約一か月を要した。)、恐喝及び道路交通法違反等があった。非行を行った生徒は、非行事実及び一緒に非行を行った他の生徒のことを容易に話そうとはしなかったが、生活指導に当たる教員(以下「生活指導教員」という。)は、生徒の反省を促すため、生徒が自発的に非行事実を認めるよう粘り強く説得しなければならなかったし、ときには、教育的な配慮から、判明している事実を伏せたまま、生徒を説得することも必要だった。

特に、暴力事件を起こす生徒は、教員に対する根強い不信感や敵愾心を抱いており、教員への暴力的反抗も辞さないという態度を示すことが多かったが、他方、教員はかかる生徒に対しても粘り強く説得を続けなければならず、その指導は困難を極めた。

日向工業高校では、生活指導教員が中心となって、非行事件に対する指導のほかに、月に一回の割合で服装頭髪検査を実施していたが、規則に違反する生徒が約一〇〇名もいた上、それらの生徒と教員との間で激しいやり取りがあり、教員の心労は著しかった。検査に通らなかった生徒については、翌朝再検査を実施し、これに合格しないと登校を認めないという運用がなされていたが、反抗心の強い生徒の中には規則に適合した制服で検査に合格した後、教室に戻って直ぐ違反服に着替えるという者もいた。

なお、日向工業高校では従前から修学旅行を実施していないが、これは、同校の生徒が、修学旅行の際、服装違反、参観先での反社会的行為、他校生徒との衝突、喫煙及び飲酒等を繰り返すため、引率が不可能と判断されたことによる。(〈証拠・人証略〉)

(二) 生活指導教員は一三名前後おり、処理すべき非行案件のあるときは、授業時間以外の時間に調査を実施し、その結果に基づいて、放課後等に生活指導部会を開催、非行生徒に対する指導原案を作成し、翌日、職員会議における決定を経て、生徒に対する生活指導(学校内謹慎、停学及び退学等)を実施する。退学以外の場合、担当の生活指導教員は、当該生徒に対し、毎日の作業課題を与え、日記を付けさせるなどして指導を行い、その効果が認められる場合には指導解除案を作成、生活指導部会及び職員会議の了承を得て、指導が終了する。

右調査や指導には一日当たり二ないし三時間を要することもあり、これを正規の勤務時間内に行うことは授業その他の公務との兼ね合いから困難であるため、生活指導教員は、放課後の約一時間を、ほとんど、右調査、非行生徒との面談及び生徒(ママ)指導部会での協議等に当てていた。また、生徒の問題行動は、地域社会や他校との関係が深いほか、家庭に原因があることも多いことから、生活指導教員は、少なくとも週一回以上、放課後に家庭訪問や警察署の少年課との連絡等のため、校外に出向いた。

そこで、日向工業高校では、生活指導部への配属を希望する教員がほとんどいなくなってしまったこともあり、宮崎県内の高校では他に例を見ないことではあるが、生活指導教員には学級担任を免除するという措置がとられていた。(〈証拠・人証略〉)

(三) 太郎は、日向市の出身であり、学校近郊の地理に明るく、知人も多い等、地域社会の事情に精通しており、また、暴力傾向のある非行生徒に睨みが利く保健体育科教諭であることから、まさに生活指導の適任者であり、生活指導教員の中でも、その活躍が期待され、実際、昭和五七年四月から昭和六〇年三月まで、生活指導部主任として、同部の活動を強力に推進した。

太郎が主任となる前の生徒の服装や登下校時の態度等には目に余る面があったが、太郎の勤務時間内外の働きかけによって、PTAとの連携もすすみ、非行防止や、夜間補導、各学期初終及び交通安全期間の立番等の指導体制も端緒につき、昭和五八年度の中頃から次第に校風の立ち直りの兆しが見られるようになった。

太郎は、主任を務めていた間、退校時間が連日午後七時五〇分ころとなり、また、一旦帰宅しても、警察署、生徒の家庭訪問及び夜の補導等に出掛け、ときには、深夜、宮崎市や大分県まで生徒の身柄を引き取りに出掛けることがある等、多忙な毎日だった。(〈証拠・人証略〉)

(四) 太郎は、昭和六〇年四月以降生活指導部を辞め、保健体育部の活動に専念したいとの希望を有していたところ、同部主任は川辺恵教諭に交替することができたものの、太郎の関与なしに、喫煙、暴力及び金銭強要等の非行調査を進めることは困難であったことから、右教諭の依頼により、引き続き生徒(ママ)指導部に残留し、風紀係(服装頭髪に関する指導を主に担当)を務めることになった。しかし、同部の教員間には、学年係(非行案件の調査、指導を主に担当)以外の部員も全員協力して生活指導に当たる旨の申し合わせがあり、実際には、太郎が昭和六〇年度の全生活指導案件のうち約三分の二の調査及び指導に関与した。

その間、太郎は、昭和六一年の初めころ、転勤を希望したが、校長から生活指導のため必要であるとして、慰留された。

太郎は、昭和六一年四月、生徒(ママ)指導部内で風紀係から部活動係に替わり、従来の生活指導の仕事に加え、部活動関係の仕事(部顧問会の招集等、運動部にかかわる全ての仕事)を処理しなければならないこととなったが、同人は意欲的にこれに取り組み、同月中に、部活動顧問調査、部活動生徒登録調査及び部活動予算要求調査等を実施した。

そこで、太郎の退校時間は、昭和六〇年四月以降も、午後七時五〇分ころとなることが多かった。(〈証拠・人証略〉)

4  保健体育科教員としての肉体的疲労

日向工業高校では、体育の授業において、演技種目が多く、一つ一つの動きが非常に大きい「大日本青年体操」の習得に力を入れていたほか、柔道、水泳、バスケットボール、バレーボール、陸上競技、サッカー及びラグビー等の練習指導を行っており、太郎もその実技指導のため模範演技等を行っていたが、被災当時四三歳であった同人にとって、右指導はかなり肉体的負担の大きいものであった。

しかも、日向工業高校には、個性が強く、集団的活動の意欲が欠落した生徒が多く、集団行動の必要な体育実技の指導は困難であったため、太郎は、授業を成立させるべく、大声を張り上げ、時には、生徒と睨み合うなどしながら授業を進めた。(〈証拠・人証略〉)

5  部活動

太郎は、サッカー部の顧問をしていたが、同部の生徒は、月曜日から金曜日までは、午後三時五〇分から午後六時半まで(月曜日は午後六時まで)練習し、土曜日の午後と日曜日は練習試合を数多く行い、夏休みにも練習を継続し、毎年六月には高校総体、八月には一年生大会、一〇月には高校選手権、二月には新人大会に参加していた。

太郎は、月曜日から金曜日までの放課後は、生活指導等のため同部の生徒を直接指導することはできないことが多く、大塚兼彦実習助手らが直接の指導に当たっていたが、土曜日や日曜日の練習試合や夏休みの練習等においては直接指導にあたった。(〈証拠略〉)

6  本件高校総体の準備

昭和六一年四月中旬ころ、第一三回宮崎県高等学校総合体育大会兼全国高校総体宮崎県予選会兼九州高校体育大会宮崎県予選会(サッカーに関しては、第三九回高校サッカー競技大会を兼ねる。以下、単に「本件高校総体」という。)が昭和六一年六月一日から同月四日まで宮崎市内の宮崎県総合運動公園陸上競技場等において開催されることが決まり、太郎は、生活指導部部活動係と生徒派遣委員を兼任していたことから、昭和六一年四月以降、他の保健体育科の教員、部活動顧問の教員及び生徒派遣委員六名と連携しながら、本件高校総体参加の全体準備に取り組み、その約八割を受け持ったほか、サッカー部顧問として、同部の高校総体参加のための準備を行った。

太郎は、文書作成等の慣れない仕事に従事して疲労が蓄積したため、昭和六一年五月二三日に行われた高校総体準備終了の反省会(酒宴)でも元気がなく、早めに帰宅した。(〈証拠略〉)

7  太郎の昭和六一年五月一日から同月三一日までの間の勤務状況等は別紙〈略〉記載のとおりであり、太郎は、正課授業のほか、サッカー部の練習指導、生徒の生活指導及び本件高校総体準備等を行った。(〈証拠略〉)

8  本件高校総体引率その他発症直前の勤務状況等

(一) 太郎は、本件高校総体開催期間中、生活指導部部活動係兼生徒派遣委員として、高校総体に参加する生徒二〇七名の派遣と教員三六名の引率出張のとりまとめ役となり、また、サッカー部の顧問として、北園勉教諭及び大塚実習助手とともに、部員一七名を引率、試合では監督を務めたほか、高校総体競技役員(審判委員)として他校間の試合で線審を務めるなどした。

(二) 太郎は、大塚実習助手とともに、昭和六一年六月一日、本件高校総体の開会式に参加した後、太郎は、サッカー部員らとともに、宮崎農業高等学校のグラウンドに移動して、午後一時四〇分ころから午後二時四五分ころまで、宮崎県立高原畜産高等学校との試合で自校の監督を務め、一対〇で勝利した。引き続き午後二時五〇分ころから午後三時五五分ころまで行われた他校間の試合で線審を務めた。

その後、午後三時五五分ころから午後五時ころまで、他校間の試合を見学して、午後五時過ぎころ、サッカー部員らを引率して宿舎に入り、午後一〇時二〇分ころ、就寝した。

(三) 太郎は、昭和六一年六月二日午前九時三〇分ころ、宿舎を出発し、午前一〇時三〇分ころから、他校間の試合を見学しながら昼食を取り、午後零時ころから、練習及びミーティングを行い、午後一時一五分ころから午後二時三〇分ころまで、宮崎県立延岡工業高等学校との試合で自校の監督を務めたが、〇対一で敗退した。その後、太郎は、午後二時三〇分ころから午後三時三五分ころまで、北園教諭に代わって他校間の試合の線審を務め、この日も宮崎に宿泊した。

(四) 太郎は、昭和六一年六月三日、年次休暇をとって、午前八時五〇分ころから午後四時二〇分ころまで他校間の試合を六試合見学した後、自動車を運転して、午後六時三〇分ころ帰宅した。

(五) 太郎は、昭和六一年六月四日は、当初五日に予定していた同月一日分の代休を取得して休養を取ることとし、午前八時三〇分ころから、高校総体時に使用した荷物を学校に運搬した後は、午前九時ころから盆栽の除草を行い、その後、焼酎のお湯割りを飲みながらテレビを視聴していた。しかし、午後一時三〇分ころには外出して、午後二時ころから午後五時三〇分ころまで、長友宏八郎PTA副会長と、不純異性交遊の場所となっている旨の情報が入った生徒宅を監視し、また、生徒の生活指導について打ち合わせをするなどして、午後七時四〇分ころ帰宅した。(〈証拠略〉)

9  発症当日の勤務状況及び発症後の状況

(一) 太郎は、昭和六一年六月五日朝なかなか起きられず、同人の子らが午前七時三〇分ころ登校した後に起床した。そして、いつもは朝食として御飯約一杯半と味噌汁を食べるところ、この日は、ソーメン入りの味噌汁だけを食べ、「ちょつと、きちいなあ。やらなければならぬ仕事がないと休みを取るっちゃけど。」と言いながら、午前七時五五分ころ自動車で家を出た。

(二) 太郎は、午前八時一〇分ころ、学校に到着し、格技室西側に駐車した車中で約五分間休憩した後、体育教官室に出頭した。午前八時二〇分から三〇分まで職員朝礼に参加し、その後、ラーメンを食べ、授業の準備をしてから、午前八時四五分ころ、建築科一年生の教室へ向かった。

(三) 太郎は、午前八時五〇分ころ、右教室に到着し、「今日は少し頭が痛て」と言いながら、ロングホームルーム「健康安全に注意する」の授業を開始した。

その後、午前九時過ぎころにも「頭が痛て」と言ったが、そのまま授業を続けていたところ、午前九時八分ころ、「頭が痛てから、お前ら静かに自習しとけ」と言って少し慌て気味に教室を出た。

太郎は、激しい頭痛のため、体育教官室に戻ると直ぐにソファーに倒れ込むように横になった。同室にいた赤星教諭の問いかけに対し、当初は「大丈夫。」と返答していたが、そのうち、非常に苦しそうな表情で頭を抱え込み、赤星教諭の問いかけにも返答をしなくなり、足から始まった痙攣が全身に及んだため、赤星教諭は、染川克子養護教諭を呼ぶとともに、救急措置として、太郎の頭を冷やし、体に毛布を掛けた。

到着した染川教諭の問いかけに対し、太郎は、言葉を発せず、手や顔で反応した(意識レベルⅢ―二〇〇)。そこで、染川教諭が、午前九時一二分ころ、救急車の出動を要請したところ、太郎は右要請を拒否するような動作と言葉を発した。このときの血圧は、正確には測定できなかったものの、およそ三〇〇mmHg―一二〇mmHgであり、脈拍も不安定であった。太郎は、その後、間もなく呼びかけに全く反応しなくなり、大きないびきをかき、周期的に痙攣を繰り返した(完全昏睡、意識レベルⅢ―三〇〇)。

染川教諭らが、午前九時二三分ころ、到着した救急車に移すべく、太郎を担架に乗せようとしたところ、同人は激しい嘔気を示したが、嘔吐自体は少なかった。そこで、染川教諭らは、太郎に誤飲防止の体位をとらせ、救急車へと移した。

太郎は、救急車の出発と同時に激しく嘔吐したので、吸引装置で排出物を吸引しながら、同人を千代田病院へ搬送した。このとき、同人の脈と呼吸は安定していた。

(四) 太郎は、午前九時二八分ころ、千代田病院に到着したが、いまだ完全昏睡状態にあり、嘔吐頻発、全身痙攣、血圧二三〇mmHg―一一六mmHg、痛覚反応・対光反射・角膜反射なし、左瞳孔散大、上肢は弛緩、下肢は強直し、他方、項部強直はないといった状態にあったことから、同病院の医師は、太郎に対し、直ちに気管チューブを挿入し気道確保の措置等を取り、血圧降下剤等の投薬治療を行いつつ、CTスキャン等の検査を順次実施した。

右CTスキャン検査の結果によると、太郎の右内包から視床部にかけてやや低吸収域が認められ、右視床部に直径約一センチメートル大の高信号域(出血巣)が認められるが、全体的には、大量出血を思わせる高信号域や梗塞を思わせる低吸収域は認められなかった(ただし、橋部の撮影は欠如している。)。

その他、各種検査によると、尿糖プラス三、尿蛋白マイナス、尿PH六(正常値四・八から七・五)、赤血球数四五五万/mm3(RBC、正常値四三一万から五六五万/mm3)、ヘマトクリット値四五パーセント(正常値四〇・二から五一・五パーセント)、血小板数一八万/mm3(正常値一〇万から四〇万/mm3)、白血球数一万五一〇〇/mm3(WBC、正常値四一〇〇から六一〇〇/mm3、総蛋白六・七g/dl(TP、正常値六・五から八・〇g/dl)、血清アルブミン四・四g/dl(正常値三・七から五・二g/dl)、血清コレステロール値は二一八mg/dl(TC、正常値は一三〇から二五〇mg/dl)、中性脂肪は六六二mg/dlと著増(正常値は五〇から一五〇)、尿素窒素一四・五mg/dl(正常値は八から二〇mg/dl)、血清クレアチニンは一・五mg/dl(正常値は〇・八から一・五mg/dl)であった。また、心臓疾患や骨折は見当たらなかった。

太郎は、同日午前一〇時三〇分病室へ移されたが、その後も、呼吸失調ないし無呼吸状態に陥ったほか、三九度以上の高熱を発する等、症状は改善せず、六月七日午後七時二分(発症後約五八時間後)に死亡した。(〈証拠略〉)

10  地域活動その他

(一) 太郎は、宮崎県サッカー協会役員として、地域少年、中学校、高等学校、一般大会、全国高校総体、全国社会人及び宮崎国体等で審判を務め、昭和五〇年ころから、若いサッカー愛好家を指導育成するため、日向市サッカーズを結成した。昭和六一年四月には、居住地区の子供会長になり、約一か月間、毎晩のようにバレーボールの練習を指導し、また、休日にはレクリエーション指導に出ることもあった。その他、日向市体育協会の指導者として、日向市子供ソフトボール大会等のコーチをしたりするなど、地域の体育活動に積極的に参加した。

これらの活動により、太郎は地域社会と密接な関係を保っていたため、地域住民からの日向工業高校の生徒に関する苦情や非行事件の通報が、直接太郎の自宅になされることも多かった。(〈証拠・人証略〉)

(二) また、日向工業高校は、教員による早朝ソフトボールを行っており、太郎はこれにも参加していた。(〈証拠・人証略〉)

11  太郎の健康状態等

(一) 血圧等

太郎は、身長一六八センチメートル、体重六四キログラムで、やや肥満型の体形であった。同人は、若いころから血圧が高めであり、昭和四六年(二八歳)に一七八mmHg―一〇〇mmHgと軽度の高血圧症となり、その後、三七歳までは、概ね、収縮期圧が一四〇mmHg以上一六〇mmHg未満のいわゆる境界高血圧の域にあったが、拡張期圧はほぼ正常値(九〇mmHg未満)内に収まっていた。しかし、身体に他の異常は見当たらず、既存の疾患もなく、健康体のスポーツマンであり、右血圧も、昭和五六年(三八歳)には一一〇mmHg―七六mmHgと正常値に戻った。

ところが、太郎が生活指導部主任となった昭和五七年(三九歳)以降、同人の血圧は、再び、軽度の高血圧症に転じ、そのまま本件被災まで下がることはなかった。昭和五七年には一七六mmHg―七二mmHg、昭和五八年には一八六mmHg―七〇mmHg、昭和五九年には一七〇mmHg―一〇〇mmHg、昭和六〇年には一六〇mmHg―九〇mmHg、昭和六一年には一七四mmHg―九八mmHgと、収縮期圧の上昇が顕著であった。

なお、太郎は、高血圧につき、降圧剤の服用等何らの治療を受けていなかった。(〈証拠略〉)

(二) 嗜好

太郎の嗜好は、飲酒については毎日焼酎約一合の晩酌をしており、喫煙については一日たばこ約二〇本を吸っていた。

また、太郎の妻である原告は栄養士の資格を有しており、太郎のために昼食の弁当を作っていたが、太郎の一日当たりの塩分摂取量を昭和四八年ころから約一〇グラムに制限していた。(〈証拠略〉)

(三) 家族歴

太郎の父系祖父甲野次郎が三七歳で狭心症、父甲野三郎が六七歳で心不全、母甲野月子が六六歳で脳出血、母系叔母乙山雪子は七三歳で急性腎不全により、それぞれ死亡しているが、太郎の七人の兄弟はいずれも健康で、高血圧症を発症している者はいない。(〈証拠略〉)

二  判断

1  公務上外判定の基準

(一) 地公災法三一条及び四二条にいう「公務上死亡」とは、職員が公務に基づく疾患等に起因して死亡した場合をいい、疾患等と公務との間には相当因果関係があることを要し、その疾患等が原因となって死亡事故が発生した場合でなければならない。

この相当因果関係を基礎疾患を有する職員について判断する際には、業務が基礎疾患を自然的経過を超えて急速に増悪させたことを要すると解される。

(二) さらに、業務による負荷が職員の有していた基礎疾患の増悪に寄与したときのように、基礎疾患と業務の双方と死因となった疾患の発症との間に条件関係が認められる場合には、業務が疾患の唯一又は最も有力な原因であることまでは要しないが、原告の主張するように業務が他の原因とともに共働原因となっていれば足りるものでもなく、業務が他の原因と比較して相対的に有力な原因となっていること、すなわち、業務が当該疾患を発症させる危険を内在すると評価できることが必要である。

(三) ただし、脳血管疾患のごとく、疾患と業務との間に固有の関連が存在しない場合には、業務に当該疾患を発症させる危険が内在するかどうか及びその危険の現実化として当該疾患が発症したかどうかを評価することは困難であるが、発症前に、(イ)業務に関連してその発生状態を時間的、場所的に明確にし得る異常な出来事に遭遇したことにより、又は(ロ)通常の日常の業務(被災職員が占めていた職に割り当てられた職務のうち、正規の勤務時間内に行う日常の業務)に比較して特に質的に若しくは量的に過重な業務(業務上の必要により正規の勤務時間を超えて週数十時間にまで及ぶ過重な長時間勤務を一か月以上にもわたって行っていた場合等)に従事したことにより、医学経験則上、脳血管疾患等の発症の基礎となる病態(血管病変等)を加齢、一般生活等によるいわゆる自然的経過を超えて急激に著しく増悪させ、当該疾患の発症原因とするに足りる強度の精神的又は肉体的負荷を受けていた場合には、業務に内在する危険が現実化したものということができる。

2  太郎の死因について

太郎が脳血管疾患により死亡したことには当事者間に争いがなく、太郎の発症時の状況及び発症直後の諸検査結果と、脳血管疾患としての脳出血、くも膜下出血、脳梗塞(脳血栓症、脳塞栓症)の諸特徴並びに医師である(人証略)の証言によると、太郎の死因は脳出血であったと推認するのが相当である。

3  太郎の基礎疾患及びその増悪

(一) 太郎は、二八歳ころ軽度の高血圧症を発症し、三〇歳ころから三七歳ころまで収縮期圧につき境界高血圧の状態にあったのであるから、収縮期高血圧がそれ自体又はそれに起因する動脈硬化を介して脳出血と密接な関連を有することに鑑みると、同人は脳出血の素因を有していたものといえる。しかしながら、高血圧の程度自体はさほど著しいものではなく、同人の基礎疾患としての高血圧症は重篤な状態にあったとは認められない。

(二) 高血圧症の危険因子としては、〈1〉遺伝的素因(家族歴)、〈2〉肥満、〈3〉ナトリウム摂取量過量、〈4〉飲酒等が挙げられる(〈証拠・人証略〉)。〈1〉遺伝的素因については、太郎の家族には循環器系の疾患を発症して死亡した者が複数存在し、これによると、太郎が循環器系の疾患である高血圧症の遺伝因子を有していた疑いもあるが、右家族らの発症の詳細は不明である上、太郎の七人の兄弟の血圧は正常であることに照らすと、同人が右遺伝因子を有していたと認めるには足りない。また、〈2〉肥満は、循環系の負担を増し、他の危険因子を増強するところ、千代田病院初診時に、太郎はやや肥満型であったと診断されているが、身長と体重の比率からその程度は軽微であったものと推認され、〈3〉塩分摂取量も長年意図的に制限されており、さらに、〈4〉太郎は飲酒の習慣を有していたものの、その摂取量は少ない等、同人に高血圧症の顕著な危険因子も認められない。

(三) ところが、太郎の血圧は、生活指導部主任となった昭和五七年四月(三八歳)から顕著な収縮期高血圧に転じ、これが本件被災まで継続し、脳出血を発症、死亡したのであるから、同人の高血圧症は自然的経過を超えて急速に増悪したものと認めることができる。

(四) 動脈硬化症について

太郎は被災当時四三歳の男性であったが、〈1〉二八歳時から継続して高血圧症ないし境界高血圧状態にあったほか、〈2〉本数は多くないとはいえ、喫煙の習慣を有し、〈3〉やや肥満型の体形であり、〈4〉生活指導等の公務に長時間従事したことによる肉体的精神的ストレスが蓄積していたものと認められ、〈5〉太郎の行動様式がA型性格行動パターンであり、生活指導やサッカー部の指導に没頭し、さらに高校総体用資料をほとんど一人で作り上げていた等の動脈硬化症の危険因子(〈証拠・人証略〉)を有していた。したがって、太郎は脳出血の発症までに基礎疾患としての脳動脈硬化症を発症しており、これが高血圧症による血行力学的影響と相まって脳出血を発症したものと推認することができる。

4  業務の過重性

(一) 前記認定のとおり、太郎は生活指導部主任を務めた昭和五七年四月から昭和六〇年三月までの間、継続して、月曜日から金曜日までは連日約三時間の時間外勤務に従事し、土曜日は六時間を超える時間外勤務に従事し、日曜日もサッカー部の指導や生徒の生活指導を行うことが多く、昭和六〇年四月から昭和六一年三月までの間は帰宅時間が多少早まったものの、昭和六一年四月中旬ころからは、高校総体準備も重なり、連日、午後七時五〇分ころまで勤務することを余儀なくされた。この情況からみて、太郎は、約四年間の長期にわたり、概ね、週二〇時間を超える時間外勤務を継続しており、通常の日常の業務に比較して量的に過重な業務に従事していたということができる。

(二) また、当時日向工業高校が県内でも非行等の多い高校であったことを反映して、太郎にかかる生活指導教員としての負担が重かったことが認められる。生徒の生活指導が太郎に時間的に不規則で、量的に予測しにくい、根気を要する仕事を強いるものであることに鑑みれば、太郎と同程度の経験を有する標準的な高校教諭に比べ、相当重い精神的肉体的負荷を受けていたものと認めることができる。これに本件高校総体の準備及び参加する生徒の引率等が重なったことにより、同人は通常の日常の業務に比較して特に質的に過重な業務に従事していたということもできる。

5  過重な業務と基礎疾患の増悪との間の因果関係

(人証略)は、業務に伴う肉体的疲労が高血圧症や動脈硬化症を招来するとは考え難く、肉体的疲労によって精神的ストレスが生じ、これが一過性の血圧上昇をもたらすことはあるが、精神的ストレスが単独で持続的高血圧(血管の変化を伴うような慢性的な高血圧症)をもたらすことは稀である旨供述する。

確かに、肉体的・精神的ストレスが単独で持続的な血圧上昇や動脈硬化をもたらすことについての確実な医学的証拠はない。しかしながら、緊張を強いられる職域では高血圧症の発症頻度が高く、また、過大なストレスにさらされている人については動脈硬化症疾患が高率に発生している等、長期間の社会・心理的ストレスと高血圧症等との関連を示唆する調査結果等により、経験的に関連性を認めることができる。さらに、本態性高血圧患者では精神的ストレスによる血圧の上昇が正常血圧者に比べて大きく、遺伝的素因や食餌因子に精神的ストレスが重なると持続的な血圧上昇を生じる可能性があることが知られており、動物実験等でも、過大なストレスが動物に負荷された場合に、一時的ないし持続的な血圧上昇が招来され、血管が硬化するような物質が動物の体内に多量に生産されるという結果が得られている。これらによれば、過大な肉体的・精神的ストレスが慢性的に続く場合、程度の差はあっても、動脈硬化や持続的な血圧上昇等のストレス病的症状を伴うものと推認することが可能である。(〈証拠略〉)

本件においても、過重な業務が長期にわたったこと、業務が過重なものになった時期と境界高血圧が高血圧症に転じた時期とが一致していること、本件被災の前に約四年間にわたる過重業務に対する回復措置が採られていないこと及び太郎における食餌因子は小さいことが認められることから、太郎の高血圧症及び動脈硬化症が死亡の原因となる重篤な症状に至ったのは、業務に内在する危険が現実化したことによるものとみることができる。

なお、(人証略)は、精神的ストレスは継続して加えられることによりいわゆる耐性を生じ、ストレスと感じられなくなる旨の見解も述べている。この見解が転居や転職等一時的なものや持続的なものでも同一性がある精神的ストレスに関しては一般論として妥当するとしても、太郎の生活指導に伴う精神的ストレスは、不定期的に個々別々の生徒による個々別々の非行案件に対処しなければならない類のものであって、その対応は常に変動し、耐性が生じたとしても、太郎の受けるストレスを激減・消滅させたとは認められない。

右に検討したとおり、太郎の脳出血とこれによる死亡は、単なる公務の機会に発生した偶然の出来事ではなく、同人の公務遂行の状況及びこれによりもたらされたと考えられる精神的肉体的ストレスが相対的に有力な原因となって、同人の有していた高血圧症が自然的経過を超えて増悪したものと推認することができ、太郎の死亡原因となった右脳出血の発症と公務との間には相当因果関係があり、太郎は「公務上死亡」したものというべきである。

三  以上によれば、被告の本件処分は違法であって、その取消しを求める原告の本訴請求は理由があるからこれを認容することとし、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 横山秀憲 裁判官 古閑裕二 裁判官 立川毅)

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